1996年 夏 ウイーン・パリ 二都紀行
小螺 < ビゴ Bigorneaux >のつぶやき

月影白き十六夜、旅のこころを書き終える
かつての詩人の魂を黄泉の国から引きずり出し語らせたのだが、
老人性失語症あるいは感性の衰えかはあえて問わぬことにしたい
旅は人をして浪漫の船乗りに変身せしめることもあろう
実体験の再結晶は法螺貝の奏でる詩とも言えるのだと自身を慰めつつ
恥じ入らぬ自分が悲しくあるのだが
金色の麦酒の泡のごとき三行詩を嵐すさぶ旅の道連れと最愛の娘たちに捧ぐ

1996年9月29日
◆1998年8月16日 成田からフランクフルトそしてウイーンへ
アルプスの雪解け水に目覚めの喉を潤し
恵まれた豊かな土地のパンと肉と果実と野菜に生命の喜びを知る
朝の公園は静寂と花々に包まれて散策は音楽家たちとの出会い
RING KAI RING 市電は街を巡り
緑なす公園に花々が陽に歌い
石畳の奥の暗きテラスに黒猫が背伸びし尻尾を緩やかに振り上げる
ざわめく市場は豊かなる幸の饗宴
見慣れぬ野菜や果実が眼を楽しませ、ザワークラウトを試し食す
時は昼、この土地の麦酒と魚菜のサンドウィッチに血肉の復活を喜ぶ
青と黒のベリーを手に、笑みつつ歩む妻の手指が軽やかに風に舞い
店先の売り手がにこやかに声を掛ける
指先でぽんぽんと西瓜の品定めをする家族連れは何処も同じか
街は往古の時を止めつつ今ここに在りそして明日も在り続ける
人の営みを変えるべきところは変え
変えざることは多くの意思をもって変えざるを実行し進む文化を称えるのだ
地下鉄からバスに乗り継ぎ坂道の美しき小さな村を過ぎる
登り詰めた広場の展望台の眼下にドナウが緩やかに流れ
葡萄の丘の遥か先の地平がブルガリア 風がゆるやかに時を巡らす
丘を下りウイーンの森の風になる
深いブナの森は明るく爽やかにつづき緩やかな道で老人たちが憩う
「グリュース・ゴット!」瞬間の人のまなざしが優しい空間を醸し風がながれる
教会だけが残った城壁のテラスに眺望がひらけ
豊にうねうねと葡萄畑と森が入り組み村の向こうに青きドナウ
城壁の入り口に陸軍小隊が野営し緊張と長閑さの交錯に戸惑う
森の道がいつか村の小道に変わり
森の風が川風と出会う村を外れドナウの岸辺のカフェで麦酒に喉を潤す
鴨と戯れる妻を遠くに見つつ川風に一瞬のまどろみ

高い太陽にさらされた駅舎に誰もなく
エスペラント講習会のポスターと時を過ごし列車を待つ
ドナウに沿って列車はウイーンへ、森から街へ人の中へ
いつまでも暮れぬたそかれの街を歩きオペラ座をよぎる
賑わいの外れの鄙びたワインケラー・アウグスティーナの卓に着く
百年の時は王宮弾薬庫からつづき、赤、黒、緑に塗り分けられた壁に光がからむ
仔牛のカツレツ、塩漬け豚のグリル、香り豊かなトマトとグリーンサラダ
オーストリアの白ワインをジョッキで重ねる
豊潤な時の流れにアコーディオンの音が奥から近づきつつ離れる
騒がしさではない人のささやきの波が地下室に満ちて
「静かなる青きドナウ」を手風琴が奏でる
重ねる葡萄酒を妻に捧げ時の流れに乾杯をする
人は出会い、語り、別れる
不思議な老女テレジアのつたない英語語りに戦争の影を見る
エクストラ・エクストラ・エクストラカフェを教えられ、奢り別れる
深夜の深い闇の公園に音楽家達のため息が満ちて
ウイーンの夜は青い
静けさの天空に星が光り流れた
◆1996年8月20日 ウイーン
ゆらゆらと朝が緑の奥から訪れる、濃いコーヒーの香りに異国の実感
豊かなるビュッフェの野菜と果実に旅の身体を癒す
味わいのパンと腸詰に生命の漲りが溢れ旅の心を駆り立てる
72時間フリーパスの切符を手に地下鉄から市内観光バスツアーへ
シェーンブルン宮殿の煌びやかな光の影に裸足のジプシーの化粧が悲しい
オペラ座周辺は緑の並木に人が賑わい、整然と林立するゴシック建築が美しい
マリア・テレジア座像を広場の中心に双翼の美術館と博物館
パプスブルク家の栄光と栄華の遺産を石に刻み音楽に語らせるのか
シュテファン寺院の尖塔の影がドナウ河を指す
夏のオペラ座は休演の静けさに包まれ
荘厳な劇場の壁からシューベルトの溜息がもれる
煌くシャンデリアと深い臙脂の桟敷そして奈落の奥は怪人の潜む闇か
ハプスブルク王家歴代の美しき遺産が部屋を埋め尽くす美術史博物館
巡れる部屋毎にルーベンスやレンブラントがうす暗がりに囁きかける
嘆きのキリストが傷つき青ざめ十字架にうな垂れる
昼過ぎのホテル・ザッハーのカフェの静かなる賑わい
妻の眼がザッハートルテに染まりアインシュペナーのクリームに歌う
苦みをたっぷりのクリームで和らげた香り立つコーヒーとサーモンサンドの安らぎ
時間の止まった街をさまよい、そこここで小さな梟の置物を求める
石畳の路地に花に飾られた窓が人の営みを語り
店々磨き込まれたガラスの奥に宝飾品が煌きつつ時を飾る
尖塔が鋭角に空を切り取り
秋風がよぎる
黒猫の欠伸、馬の蹄、馬車の軋み
たそかれて暮れなずむ公園の片隅
ビアホールの麦酒が旅の感動を爽やかな苦さに締めくくる
この地のスープとソーセージの滋味 緩やかに幸せの夜が訪れる
ヨハンシュトラウスのポルカがワルツに変わり夜は更ける
短い夏を楽しむ踊り子の肩の日焼けはジャズ
ドナウ、ドナウ、ドナウ・・・美しき青きドナウ

◆1996年8月21日 ウイーン
朝の陽にスプリンクーラーの水が虹を描ききらら光り
公園の池のほとりに老人と水鳥が憩う
地下道に通ずる八角形の下水蓋の向こうから夜はハリーの足音が響くのか
駅を抜けスーパーマーケットの商品は実用の生活の匂い
中央郵便局の重厚な佇まいと私書箱の架列に眼を見張る
RINGを歩き巡る RING KAI RING
ケルントナー通り横丁の瀟洒なカフェのひととき
小さな水のグラスとクリームの溢れんばかりのカップの中に
香しき時がゆらら佇み淀みつつ流れる
木枠に納められた新聞とFREE ARTと書かれた美しき広告の絵葉書
朝でさえ時の流れはゆるやかなのだ
あらためてシュテハン寺院の大天井の下に佇みリフトで展望台へ
広がる街と眼下の広場に馬車が童話のページをめくり
緑・黄・黒の甍が綾なす意匠の魂が超現実的空間へワープする
地下の暗闇のカタコンベに黒死病の怨念が揺らぎつつ怨霊が舞い続けるのだ
暗闇の地下道を抜け光りさす街に出る
人の営みを石畳の路地からさらに奥まったドアの向こうに隠して
この街は生き続けるのか
夜、揺らめく蝋燭の淡い光りにピアノ弾きの男の目が悲しい
フランスの洗練とドイツの質実とロシアの影を皿に描きつつ
絶妙なる白くきらめくワインこそがオーストラリアの宝石
ピアノは男の魂を弾かせヨーロッパをさまよいつつ悲しみの唄を歌いつづける
時は流れ止り、躊躇いつつも白き船は航海する
味わいは深くさやかにプルシャンブルーに染まる秋霜の記憶か
暗黒の苦き香りと清かなる甘きデザートにも酔いを漂わす
「漂えど沈まず」この地の精霊とと語らう
暗黒の地上の遥か中天は青く群青のさらなる高みに月光は上弦

◆1996年8月22日 ウイーンからパリへ
ドナウ運河を左にハイウエイを走り空港へ
アルプス上空の雲海に太陽がはじけ翼の影を映し出す
パリ着12時30分、メリディアン・エトワール3117号室のドアを開ける
ブローニュの森は淡き光にあふれ秋色の香りに包まれ
そこここに憩う人と眼差しを交わす犬との絆が醸す空間にやすらぎの風
この並木がマロニエか 緑深き街のオアシス・ブローニュは時までがやわらかい
遠くへ ゆらゆらと散策し心をこの町の空気に入れ替える
聳え立つ凱旋門上の人影は旅人か
大通りから路地へ巡りバケットのサンドイッチと果物を求め道を戻る
一休みの時のまどろみ旅の疲れが時を止め部屋食のダイヤルを回す
オリエンタルは中東 シシカバブ風の肉にビールもまた良く
異国の夜に溶けていくのだ
オペラ座からチェルリー庭園 コンコルドからセーヌの河畔をエッフェル塔へ
雨上がりの街をバスは巡り、オルセー、ルーブルを眺めつつノートルダムに至る
善男善女のざわめきとどよめきの空間に高みからステンドグラスが光さす
まるみやはらけきドームの屋根と天空に屹立する塔屋の痛みが
人の魂魄をして原罪を知らしめるのか
セーヌ河は何も語らずただ流れ行き 秋近い日差しの傾きに赤き花の鮮やかなり
ブランドに群がる人々の目が求めるものは MONO
美しき工芸を着けるべき肉体の存在すべき位置づけと虚ろな内面の不協和音
ここはパリー華の都 もの狂いたる異邦人
街角に手風琴を弾くジプシーの少女
犬の腹に子猫を眠らせ餌代をねだる少年
物乞いする老女のスカーフが鮮やかに風に揺れ一族の歴史を語るのか
いつまでも暮れぬたそかれにブラッスリーの賑わい
赤きテントと白熱灯の光に氷上の魚介とレモンの山が店先で足を止めさせる
メニューに溢れる海と大地の恵みを聞き選び麦酒で待つ
大皿に氷を盛り上げ 蟹 海老 ムール 牡蠣 尻高 螺 小螺を盛る
大ぶりのレモンをギュッと絞りひたひたとそそぎ食す
白き冷たきワインの爽やかな酸味に口を洗い香しきパンで拭う
緑濃き野菜とトマトの赤さもこの地の恵み ちびたる Bigonots を針でほじくり
夜は幸せの語らいに満ちて潮騒の浜辺にたゆとうのか
Bigonots CHEZ CLEMENT きびきびとウエイトレスの髪がゆれる

◆1996年8月24日 パリ
地下鉄1号線ポルトマイヨからアルゼンチン、ジョージX世
フランクリン・ルーズベルト、クレメンシュー、コンコルド
毎日の駅順をローマ字読みに置き換え乗り換えセーヌの辺に立つ
朝一番のオルセー美術館の列に並び感動の時を過ごしマレの静かな街を行く
路地の奥深く石畳の道際に赤地に黒く太くPICASOの息遣い
中世からの宗教画に染められた感性に強烈な現代の衝撃と共鳴に胸が高鳴る
青の時代を言い切れぬ悩みに塗りこめて時代の暗さを箱の形に押し込める
そして闘牛の血潮と熱狂の興奮が戦争の悲惨な現実に精神の逼塞に刃向かう
梟は高みから世界を見据え ゲルニカはここには無い
昼下がり影黒きピカソ中庭のカフェ
熱く黒きコーヒーの苦さが日陰に漂う
光と影の強いコントラストに目を細めて時を眺める ピカソのパリの憂鬱
小道をたどりサンルイ教会の尖塔を目指す
小さな窓に小さな梟を見つけ求める
サンルイからバスチーユへ市場通りの賑わいと妻の手のブラックベリー
八百屋、魚屋、街を生活に染め この通りの風は熱い
いまバスチーユに監獄はなく広場には解放の記念碑
メトロからメトロへ モンマルトル駅出口は鮮やかな壁画の彩りの螺旋
一瞬の通り雨を一つの傘に肩寄せてモンマルトルの丘を登る
丘の頂きに人が溢れ カフェと似顔絵描きと路地の雑踏とパンとマイムの男
パリの街並みが雨上がりに霞み 雲に溶けつつ日差しに蘇る
ダリの空間は時を歪めた象が飛び、鮮やかな明るさの中に寂しさが滲む
ダリ・ダリ・ダリ、音楽を否定した音楽家の超常和音が満ち満ちて悲しい
昼と夜と雨と月が交錯し時間が溶けた宇宙の砂漠に寂しくダリの笛が聞こえる
広場の鳩に戯れる妻に突如イタリア親爺の襲撃笑撃
写真を撮り合い歌いながらに別れる明るさも世界のモンマルトルか
壁画の階段を巡り下り降りて地下鉄は日常のパリへと向かう
夜、再びブラッスリーの卓に豊かなる時を味わう
カーテンの襞飾りがロゼのグラスにゆらら浮かびセーヌの流れをたゆとうのだ
ざわめきを背中に店から街へ 夜風が頬に秋を告げてよぎった
◆1996年8月25日 パリ
パレ・ロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーヴル
地下から立ち上がるガラスのピラミッドを中心に三つの翼を広げた殿堂
ここに人類の感動の歴史が渦巻き怒涛の時流が滝となって流れ落ちる
ここに存在することがすでに大いなる旅の序章
光と影とが鮮やかにキャンパスから壁面そして天井へと連なり
力強く獅子が大理石に吼え ヴィーナスはやはらかく白くさやかだ
感動の時を尋ねつつ三つの翼に過去の天空を舞う
ここから連なる新たなる時の行く末は緑なす草原の彼方にありしか
地獄の炎に焼き爛れた廃墟の石くれにあるのか
マラトンの丘を駆け抜けるようにこの道を走り抜けた5時間
強烈な目眩と暴風が全身を駆け巡り肉体を痛めつける
何時の日か再び訪れゆるやかなゴンドラの旅のように時を過ごすのだ
熱き心の旅路を一杯の麦酒で癒しつつ夜のパリに居て
地下道の黒人ジャズメンが吹くサックスはサマータイム
コンコルド駅地下道に白い秋風が一瞬吹き抜けて木魂となって消えた
コンコルド乗り換え8号線へ マドレーヌ、オペラ、リシュリー
リュ・モンマルトル駅を出て交差点の賑わいが黄昏に華やぐ
斜向いの路地に赤くビストロ・CHARTIER・シャルティエの光り
高い天井に100年の時が佇むのか、にこやかな出迎えにこころ和む一瞬
「真実の瞬間」15秒の緊張がゆったりとした卓席の喜びのイントロ
老ギャルソンとのフランス語会話を超えて こころがメニュをめくる
空腹は真実の眼差しで求めるものを求め 美味きものを導き出す
「あなたのお薦めは?」ガイドブックの一行が彼の自信の笑みを呼ぶのだ
紙のテーブルクロスにオーダを鉛筆で書き付けひとときのブランク
この街のビールも爽やかに苦く喉を潤し時を止める
ロゼの葡萄酒も幸多き時の女神のやはらかき乳房の香りか
サーモンに添えられた山盛りのポテトと牛肉を隠すがごとき隠元豆の美味さよ
麦酒、葡萄酒、水道水のジョッキに喉をうならせつつ海と大地を味わい
気配りの老ギャルソンの見事なサーブに時を失い紙にデザートの絵を描く
満ち足りた時を現金と引き換えクロスとメニュをメモワールとする
夜はゆららに揺れつつ時は流れ行き
ここはパリ 秋近き夜は群青
星が続けざまに天空を飛びかい 最後の夜のしじまを切り裂いて消えた
◆1996年8月26日 パリそして成田へ
焼き立てパンの香が芳しく朝のパリはさやかにたたずむ
凱旋門のリフト故障に螺旋階段を息弾ませて登る
光りあふれる12条の街並みは街路樹の緑に縁取られ輝く
シャンゼリゼ 華やかさと豊かなる広き並木道
クレマンソー広場からマドレーヌ寺院そしてエリゼ宮
童顔の兵士の捧げ持つ銃剣の切っ先が太陽を突き刺しきらめく
パリジェンヌは街を飛ぶ
自由を小粋なファッションにアレンジし街を飾り街に生きる
かわいいしっかりものの娘たちに別れの歌を唄う
昼下がりのカフェ ビアジョッキの泡の向こうに街行く人の流れを見る
オニオンスープ バケットのサーモンミックスサンド レモンの涙
何時の日か再びこの椅子に座ってこの街の風に染まる時を想う
珠玉の時の流れが脳内空間映写機に満ち溢れ
ゆるやかに忘却回路へとつなぎ飛行する
青き真珠 ウイーン メレダイヤの縁取りきらめくサファイヤ パリ
旅の終章・日常への離陸
雲の海が青き海にかわり 波間の大地をめざしての滑空
夏終わらぬ暑きふるさと 夜風に虫の音 この地の麦酒 やはらかき時の流れ
FIN
